2011/12/09

11月22日〜12月9日

22日
ヒューストンから来客。
アメリカ人5人と、ヒューストン美術館の中森康文さん。それに加え、神戸大学の池上裕子さん。
お客様
* 写真は、仕事場での来客の模様

23日
朝から兵庫県立美術館の榎忠さんの個展を観に行く。
続いてその近くのBBプラザ美術館に、天津大学関係者による写真展「阪神観写真展」を観る。午後、親戚の一家が来訪。

理論社倒産のため絶版になっていた「美しいってなんだろう」が、イーストプレス社から復刊する。

24日〜25日
筑摩書房のPR誌「ちくま」にて、12月から連載が始まる「美術、応答せよ!」の原稿を必死で仕上げる。第一回は、東大教授、小林康夫氏への質問に、私が応える内容。

27日
親戚とチームモリムラだけのごくウチワで、紫綬褒章の記念パーティ。
もうすぐ、12月だ。マドリードでの個展は15日がオープン。14日には、映画館での、私のビデオ作品の上映会とレクチャーがある。これからレクチャーの猛勉強をしなければいけない。

12月1〜3日
来年春から連載が決まった「花椿」誌で、文章とともに絵(のようなもの)を載せることになった。レイアウトの関係で、絵だけ先に欲しいとの編集部からのリクエストに応えて、いろいろ試行錯誤する。
1日午前、「20歳の原点」出品作の返却に土方明司さん来訪。
午後、産経の坂下記者来訪。食べ物についての取材。

マドリードでの英語レクチャーの稽古や、その他さまざまなことが山積し。12月6日の東京に行く予定を返上。東京ステーションギャラリーでのグループ展のオープニングにも行けなかった。

庭のハナミズキが色づき、落ち葉になるので、掃除がたいへんである。
ハナミズキ
*写真は、庭のハナミズキ


2011/11/20

11月14〜16日

紫綬褒章の伝達式と皇居での拝謁のため東京に向かう。
15日11時、如水会館にて伝達式。控えの間で、大竹しのぶさんや種田陽平さん御夫妻とあいさつ。大竹さんとは、1999年、蜷川幸雄演出の芝居「パンドラの鐘」で一緒だった。種田さんは、辻仁成監督の映画「フィラメント」の美術監督だった。私はともに「俳優」として出演したのだが、下手でも無謀でもそういうことをしていたおかげで、異分野の人達との交流が生まれた。当時は、「あまり手広くいろいろやるな。美術に専念しろ」あるいは、「もうモリムラは美術の人じゃない」などと言われたりもしたが、今にして思えば、決して悪い事ではなかったと感じる。
細胞生物学の岸本健雄教授夫妻や、情報科学の西尾章治郎教授夫妻とも談笑する。
午後に皇居に行く。天皇陛下は体調がすぐれず、秋篠宮殿下が代行。長い一日が終わる。
帰りに文科省の若い人から、全員に、天皇陛下からの賜物が配られる。四角い箱で、ずっしりと重い。文鎮か何かと思いつつ、ホテルに戻って開けてみると、「菊焼残月」という、大きな三笠饅頭がみっつ入っていた。菊の御紋章の焼き印のある菓子であった。
P1070200
*写真は、ホテルからの朝の景色


2011/11/10

10月21日〜11月8日

風をひいたり、出かけたり、訪問者があったりと、ばたばた過ごす10月後半から11月。

10月21日、東京に行く。11時に東京駅着。11時半から、ホテルシャングリラのイタリアレストランで軽いランチをとりながら、シュウゴアーツの佐谷周吾さんと、いくつかの用件で打ち合わせ。
午後1時半すぎ、銀座のBLDギャラリーに行く。長澤章生さんと、作品集「肖像 経済」の最終的な打ち合わせをする。
午後3時、アンディウォーホルミュージアムのエリック・シャイナーと一色事務所の大舘さんが来る。BLDの事務所を借りて、近い将来に予定されているアンディウォーホルミュージアムでの個展の打ち合わせを行う。
このあと、資生堂ギャラリーのダヤニータ・シン展のオープニングに行く予定だったが、母親の状態がかんばしくないので、ここまでにして東京駅に直行。帰りぎわ小雨が降る。暑いような暑くないような、じめじめした空気。なんだか頭痛がする。

10月22日。朝起きると喉がちょっと痛い。風邪をひいたようだ。

10月23日。完全に鼻声になる。午前11時に、大阪市役所に行く。前に出版された「大阪観考」という本をテーマにした座談会に参加。本の制作にタッチした、ヤノベケンジ、束芋、伊藤存、松井智恵、そしてこの本の企画者である木ノ下智恵子さんらと壇上で約2時間しゃべる。終了後、かなり状態が悪くなり、帰って寝込む。

10月24日。朝から近くの内科医院に行く。ずっと寝込む。夜かなり苦しかった。この週に計画していた様々な仕事をすべてキャンセルする。

10月26日。紫綬褒章受章の記者会見を行う。これは中止に出来ず敢行。毎日、読売、産経、共同通信、時事通信の各社記者がそれぞれのカメラマンと同行で来訪。かなりの人数になる。
記者会見
*写真 取材を受けるモリムラ

10月28日。読売新聞者の木村未来記者と、正倉院展の取材で奈良に行く。じつはこれがはじめての正倉院展である。まだオープン前なので、じっくり拝見。行くと、やっぱり面白い。私は伎楽面について語ることに。

岩波書店より、「対談集 なにものかへのレクイエム〜20世紀を思考する」が発売。

10月29日。母の体調が思わしくないので、内科医院に連れて行く。精神的な原因が大きいという判断。ほんとうだろうか。

10月30日〜31日にかけて、マドリッドで12月に開催する個展とあわせて計画されている、映像上映会+レクシャーの原稿を練る。雑事が多く、なかなか落ち着いて原稿が出来ないが、早朝や夜に時間をすこしずつ作る。

11月2日。紫綬褒章発表の報道がなされる。電報、花などが押し寄せる。

11月3日。スロベニアから帰国中の小池健輔さん来訪。

11月4日。東京に行く。マドリッド出展作品のプリント仕上がりのチェックのため、写真弘社に行く。その後、銀座の資生堂ギャラリー近辺で3つほど、打ち合わせなどをする。

イラストレーター杉本裕子さんの訃報がはいる。杉本さんは、京都芸術短期大学で私が非常勤講師をしていた頃の教え子である。女優シリーズのメイク担当でもあった。その後、イラストレーターとして独立。学生時代から絵のうまい人だった。自分の好きなものが明確だった。その「自分の好きなもの」が社会にどう受け入れられるかと悩み、学生時代はずいぶん相談を受けたものだった。しかし、プロのイラストレーターになってからは、その「自分の好きなもの」をうまくコントロールして、すばらしい絵を描く人に成長した。最近は会う機会が少なかったので、訃報に愕然とした。言葉が出て来ない。

11月5日〜7日。鹿児島に行く。南日本美術展の審査員。今年で私は五年目になる。昨年までご一緒していた草薙奈津子氏にかわり、今年から絹谷幸二氏が参加。昨年同様、建畠アキラ氏と文田哲雄氏は参加。鹿児島は26 度まで気温があがり、まるで初夏のよう。

11月8日。シュウゴアーツの佐谷周吾氏、来訪。来年のシュウゴアーツでの個展、シンガポール展などについて打ち合わせ。東京国立近代美術館の保坂健二朗氏来訪。来年のモスクワでの企画展についての打ち合わせを行う。


2011/10/12

10月6日

シンガポールの真田一貫氏が来訪。シュウゴアーツの佐谷周吾氏、ウーファーアートドキュメンタリーの岸本康氏らとともに、
来年はじめにシンガポールで開催予定の個展についての打ち合わせをする。展示計画、展覧会タイトルなども決定。
長時間にわたり、真田氏よりシンガポールという国の成り立ちなどを聞く。

9月から10月にかけて、いらないものの片付けをしている。いらないものを残しておくと、いらないものが増えすぎて、
ほんとうにいるものがどこにあるのかもわからなくなる。と同時に、今はいらないと思えても、将来それが貴重になって
くる可能性もある。片付けや整理は難しいが、思い切った切り捨ての気持ちは大切である。

10月11日に校了を迎える出版物の原稿とにらめっこしている。2010年を中心に催された対談をまとめた本である。
鈴木邦男、福岡伸一、平野啓一郎、上野千鶴子、藤原帰一、やなぎみわ、高橋源一郎の各氏との対談集である。

シンガポール展の打ち合わせ終了後、夕刊で、スティーヴ・ジョブズ死去の報道を読む。

庭の酔芙蓉につぼみがつく。
ピラカンサスの実が色づきはじめる。


2011/08/17

8月8日~17日

 8月8日、急遽東京に行くことになった。岩手県立美術館で10月から開催の予定で進めていた個展「森村泰昌『人間風景』〜萬鉄五郎 松本竣介 舟越保武のために」を中止せざるを得なくなり、関係者が集まって会議を開くことになったからである。
 出品作品は8割方出来つつあった。一踏ん張りして完成に向かおうとしていた時期だったが、すべてを中断した。
 中止の理由は、舟越保武作品の著作権者からの申し出による。舟越作品を彷彿とさせるイメージの使用について合意が得られなかったためである。詳しいいきさつや、私が構想した作品内容、あるいは、人それぞれの舟越保武作品への「思い」について等々、語るべき事はたくさんあるが、今は触れないでおく。

 思えば3月11日を境に、2011年という年をどう過ごすかという選択について、誰もが、当初の予測とはまったく違ってしまうことになっただろう。私の場合は、岩手県立美術館に巡回するはずであった「まねぶ美術史」展が中止になり、そのことをそのまま受け入れることができず、この巡回展に変わる別の展覧会を立ち上げたいと考えることになった。岩手に何度も通い、展覧会の準備に邁進し、その間に、多くの人々の協力や興味も増え、いよいよプレスリリースやポスターを作るところまで歩を進めて来たが、そこまでとなった。

 想い出すのは、岩手での7月21日から25日までの滞在で、ビデオ作品のためのロケを敢行した時のことである。私は、岩手の美しい自然の風景を撮りたかった。この岩手の見事に美しい自然の力が、いっぽうでは大きな悲劇を生む非情のちからにもなる。そういう自然の両局面は、人間自身が持つ両局面でもあるだろう。そんな風に考えて、慣れない登山をし、八幡平のモッコ岳に行った。お昼前の頂上からの360度のながめは素晴らしく、これなら夕暮れはもっと美しいに違いないと確信し、下山後、再び夕暮れのモッコ岳を目指した。昨日でも明日でも見られなかった岩手の至宝の美を見た気がした。

 その翌日は盛岡から陸前高田と大船渡へと向かった。私にとっては4度目の被災地であった。モッコ岳をビデオ映像にするだけなら、誰もが歓迎する行為であろう。しかし被災地という悲劇の場所でカメラをまわすことには抵抗も感じた。かつて阪神淡路大震災の時、大阪に住む私は、一歩も被災地に足を踏み入れなかった。「ボランティア活動をやらなくても、この風景を目撃しておくことは重要だよ」と何人もの知人からアドバイスを受けたが、私は頑固に拒否し続けた。その選択が間違っていたとは今も思っていない。だが、今回はなぜか積極的に被災地に赴こうと考えた。どちらの選択が正しいのかはわからない。1995年に私の取った態度と、2011年に取った態度が180度違っている事に、ブレがあるとも思えない。ともかく以前は当地に赴くのを拒否し、今回は何度も足を運び、赴くだけでなく、当地で作品作りまでしようと決めたのだった。
 被災地でのロケの日、震度4〜5の地震があった。私はメイクの最中だった。
メイクと地震。この奇妙な取り合わせこそが、芸術というものの、なかなか一般的には理解されない現場の有り様である。
 被災地を背景にした現地での撮影の最中、「なにをしているのですか」と問う人がいた。事情を説明すると、「がんばってください」と返事があった。批判の言葉を浴びせられると覚悟していたが、真逆の反応だったので驚いた。非常時に、かえって人は人に優しくなれるものなのかもしれない。
 被災地から、ぐったり疲れて夜遅く美術館に戻ると、館長を始め、主要な美術館の関係者が我々一行を待ってくれていた。そして、問題が発生したと伝えられた。

日記用写真 福島20110817

*岩手/八幡平のモッコ岳山頂にて(2011年7月22日)

 岩手でのロケから大阪に帰ってすぐに、萬鉄五郎の自画像をテーマにした写真作品の準備と撮影をした。どんどんやらないとタイムリミットになる。松本竣介のための作品も徐々に形にしていった。展覧会内容の書籍化も実現できそうなので、そのための文章も書き始めていた。そして葛西薫さんが、すばらしいポスターとチラシのデザインを提案してくださった。それも無料で!

 こんなふうに、開催に向けてあわただしく準備を進めていたが、ついに8日の最終会議となった。
 午後4時半、会議が終了。「人間風景」展の中止が正式に決定した。「非常時の芸術」を考えるために、萬、松本、舟越の三人の芸術家をテーマにしたかった。しかし舟越が抜けるのであれば、やる意味はない。中途半端なことをするのなら、リスクを負ってでも、全面中止にすべきと考えた。多くの関係者や協力者、理解者に、中止の連絡とお詫びをしないといけない。様々な関連の催しもすべて取りやめになるわけだから、早くそのことを伝えなければならない。大きな取材をしてくれることになっていた雑誌や、私が提案していた某雑誌での座談会にも欠席の連絡をしなければならない。うんざりするほどたくさんの事後処理がある。いや、そんなことはいい。はっきり言おう。今回のことで、私は非常に傷ついた。表現する人間が、その表現の自由を奪われることで、どれだけ傷を負うか、他人にはあまり理解は出来ないかもしれない。いや、そんなこともどうだっていい。今回発表できなかったビデオ作品のいったいどこがいけないのだろう。私にはそれがどうしてもわからない。このビデオ作品が、舟越保武やその作品を穢すものであるなら、納得もできよう。しかしどう考えても、どうながめても、その逆なのだ。そのことが理解されないことがいたたまれなく悲しい。私はこのビデオ作品を、舟越保武作品が好きな人にぜひ見てほしい。岩手の人達にも見てほしい。むろん、さらに多くの人達にも見てほしい。そしてほんとうにこの作品の公表がいけないことなのかどうか、ぜひ教えてほしい。

8月10日。昨日と一昨日、夜に大きな叫び声をあげて、自分でもびっくりして目が覚めた。平常心でいるつもりであっても、どこかで抑えきれないものがある。最近、母親の食欲がないので心配だったが、先日の胃カメラ検査の結果は良好だったのでひと安心である。胃がん摘出から3年目になる。そんな母親は、「岩手での展覧会がなくなったんやったら、夏休みしたらええがな。それにしてもぎょうさん無駄遣いしたなあ」と言う。神経の細い人なので、今回のトラブルがストレスになることが心配である。もう夢で叫んだりはしないでおこう。

ともかく、今年前半を賭して用意してきた岩手での展覧会はなくなった。
一旦すべてを忘れるために、ささやかな夏休みをとろう。
悲しい夏休みだが、2011年という特別な年の想い出としては、それもいい過ごし方かもしれない。


2011/07/20

7月9日~19日

7月9日
クロワッサンプレミアムの取材旅行で、香川のこんぴらさんに伊藤若冲と高橋由一を観に行く。続いて、鳴門の大塚国際美術館に行く。プレミアム副編集長の齊藤さん、カメラの馬場さん、ライターの藤原さんとの四人旅である。

7月10日
引き続き取材旅行。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、井原市の平櫛田中記念館などを探訪。もの凄い暑さだった。

7月13日
再びクロワッサンプレミアムの旅に出る。まずは青森に飛び、青森県立美術館へ。目的は棟方志功だったが、巨大なシャガールに驚く。シャガールは絵がうまい、とあらためて感服。そのあと、棟方志功記念館と浅虫温泉の椿館に行き、棟方志功作品を鑑賞。逗留は、岡本太郎の巨大な暖炉がある奥入瀬渓流ホテルで。

7月14
八戸から盛岡の岩手県立美術館に移動。福田パンによって後、岩手の花巻に行く。宮澤賢治記念館、イギリス海岸、花巻農業高校敷地内の賢治の住家の復元などを観る。

7月15日
花巻の毘沙門天を拝観したあと、萬鉄五郎記念美術館を訪れる。午後2時のフライトで花巻を発つ。

7月16日
21日からの岩手でのロケ(ビデオ映像作品)のための衣装打ち合わせ。舟越保武のダミアン神父像をテーマにする。マスクや作った手なども使うので、そういう重要な小物のための打ち合せもやる。

7月17日
松本竣介の「立てる像」に基づく作品をやり始める。このために撮ったいろいろな写真のモノクロコピーをコラージュして、その上からパステルで色をつける。ちょっと松本竣介風になる

7月18日
萬鉄五郎の自画像をテーマに作品を作るので、その服の打ち合わせや実験を行う。思いのほか時間がかかった。異常に蒸し暑い一日で、かなり疲れる。時間を見つけては仕上げたクロワッサンプレミアムの旅エッセー、完成させメールで送る。21日からのロケ作品のためのシナリオ、絵コンテ、それに作中で私が行う朗読のための文章の作成などもやる。たくさんのやることがある。

7月19日
21日からの準備に明け暮れるうちに夕方となる。


2011/07/09

7月2日~7日

7月2日
京都大学で開催の表象文化学会で、小林康夫教授との対談を行う。「感受性は『私』が傷つく事によって培われる」という教授の発言が強く印象に残った。

7月4日
撮影。松本竣介の「立てる像」をテーマに。
しかしうまく行かない。午前10時からはじめて、夜の11時過ぎまでかかる。

7月5日
日本橋の高島屋Xギャラリーでの個展準備のため東京に行く。
順調に進み、とてもいい感じの展示ができる。

7月6日
午前中に鎌倉の神奈川県立近代美術館に行く。「立てる像」を鑑賞する。
とんぼ返りで午後1時、高島屋へ。北野恒富のお孫さんである北野悦子さんや、竹内栖鳳のお孫さんである伊藤さんにお会いする。その後、客足が途切れず、結局昼食抜きとなる。6時半、高島屋を出て、東京駅から大阪に戻る。

7月7日
岩手での個展について考える。なにか私の中で足踏みするものがある。なぜ私はこの展覧会をやるのだろう。「立てる像」をテーマにした作品を制作中だが、はたして今の方針で突き進んでいっていいのだろうか。私はいったいどこに「立つ」べきなのか。しかし時間はない。いろいろな準備が急がれる。特に7月21日から始まる岩手ロケによるビデオ作品の準備をすべきなのだが、体も頭も動かない。