8月8日~17日
8月8日、急遽東京に行くことになった。岩手県立美術館で10月から開催の予定で進めていた個展「森村泰昌『人間風景』〜萬鉄五郎 松本竣介 舟越保武のために」を中止せざるを得なくなり、関係者が集まって会議を開くことになったからである。
出品作品は8割方出来つつあった。一踏ん張りして完成に向かおうとしていた時期だったが、すべてを中断した。
中止の理由は、舟越保武作品の著作権者からの申し出による。舟越作品を彷彿とさせるイメージの使用について合意が得られなかったためである。詳しいいきさつや、私が構想した作品内容、あるいは、人それぞれの舟越保武作品への「思い」について等々、語るべき事はたくさんあるが、今は触れないでおく。
思えば3月11日を境に、2011年という年をどう過ごすかという選択について、誰もが、当初の予測とはまったく違ってしまうことになっただろう。私の場合は、岩手県立美術館に巡回するはずであった「まねぶ美術史」展が中止になり、そのことをそのまま受け入れることができず、この巡回展に変わる別の展覧会を立ち上げたいと考えることになった。岩手に何度も通い、展覧会の準備に邁進し、その間に、多くの人々の協力や興味も増え、いよいよプレスリリースやポスターを作るところまで歩を進めて来たが、そこまでとなった。
想い出すのは、岩手での7月21日から25日までの滞在で、ビデオ作品のためのロケを敢行した時のことである。私は、岩手の美しい自然の風景を撮りたかった。この岩手の見事に美しい自然の力が、いっぽうでは大きな悲劇を生む非情のちからにもなる。そういう自然の両局面は、人間自身が持つ両局面でもあるだろう。そんな風に考えて、慣れない登山をし、八幡平のモッコ岳に行った。お昼前の頂上からの360度のながめは素晴らしく、これなら夕暮れはもっと美しいに違いないと確信し、下山後、再び夕暮れのモッコ岳を目指した。昨日でも明日でも見られなかった岩手の至宝の美を見た気がした。
その翌日は盛岡から陸前高田と大船渡へと向かった。私にとっては4度目の被災地であった。モッコ岳をビデオ映像にするだけなら、誰もが歓迎する行為であろう。しかし被災地という悲劇の場所でカメラをまわすことには抵抗も感じた。かつて阪神淡路大震災の時、大阪に住む私は、一歩も被災地に足を踏み入れなかった。「ボランティア活動をやらなくても、この風景を目撃しておくことは重要だよ」と何人もの知人からアドバイスを受けたが、私は頑固に拒否し続けた。その選択が間違っていたとは今も思っていない。だが、今回はなぜか積極的に被災地に赴こうと考えた。どちらの選択が正しいのかはわからない。1995年に私の取った態度と、2011年に取った態度が180度違っている事に、ブレがあるとも思えない。ともかく以前は当地に赴くのを拒否し、今回は何度も足を運び、赴くだけでなく、当地で作品作りまでしようと決めたのだった。
被災地でのロケの日、震度4〜5の地震があった。私はメイクの最中だった。
メイクと地震。この奇妙な取り合わせこそが、芸術というものの、なかなか一般的には理解されない現場の有り様である。
被災地を背景にした現地での撮影の最中、「なにをしているのですか」と問う人がいた。事情を説明すると、「がんばってください」と返事があった。批判の言葉を浴びせられると覚悟していたが、真逆の反応だったので驚いた。非常時に、かえって人は人に優しくなれるものなのかもしれない。
被災地から、ぐったり疲れて夜遅く美術館に戻ると、館長を始め、主要な美術館の関係者が我々一行を待ってくれていた。そして、問題が発生したと伝えられた。
*岩手/八幡平のモッコ岳山頂にて(2011年7月22日)
岩手でのロケから大阪に帰ってすぐに、萬鉄五郎の自画像をテーマにした写真作品の準備と撮影をした。どんどんやらないとタイムリミットになる。松本竣介のための作品も徐々に形にしていった。展覧会内容の書籍化も実現できそうなので、そのための文章も書き始めていた。そして葛西薫さんが、すばらしいポスターとチラシのデザインを提案してくださった。それも無料で!
こんなふうに、開催に向けてあわただしく準備を進めていたが、ついに8日の最終会議となった。
午後4時半、会議が終了。「人間風景」展の中止が正式に決定した。「非常時の芸術」を考えるために、萬、松本、舟越の三人の芸術家をテーマにしたかった。しかし舟越が抜けるのであれば、やる意味はない。中途半端なことをするのなら、リスクを負ってでも、全面中止にすべきと考えた。多くの関係者や協力者、理解者に、中止の連絡とお詫びをしないといけない。様々な関連の催しもすべて取りやめになるわけだから、早くそのことを伝えなければならない。大きな取材をしてくれることになっていた雑誌や、私が提案していた某雑誌での座談会にも欠席の連絡をしなければならない。うんざりするほどたくさんの事後処理がある。いや、そんなことはいい。はっきり言おう。今回のことで、私は非常に傷ついた。表現する人間が、その表現の自由を奪われることで、どれだけ傷を負うか、他人にはあまり理解は出来ないかもしれない。いや、そんなこともどうだっていい。今回発表できなかったビデオ作品のいったいどこがいけないのだろう。私にはそれがどうしてもわからない。このビデオ作品が、舟越保武やその作品を穢すものであるなら、納得もできよう。しかしどう考えても、どうながめても、その逆なのだ。そのことが理解されないことがいたたまれなく悲しい。私はこのビデオ作品を、舟越保武作品が好きな人にぜひ見てほしい。岩手の人達にも見てほしい。むろん、さらに多くの人達にも見てほしい。そしてほんとうにこの作品の公表がいけないことなのかどうか、ぜひ教えてほしい。
8月10日。昨日と一昨日、夜に大きな叫び声をあげて、自分でもびっくりして目が覚めた。平常心でいるつもりであっても、どこかで抑えきれないものがある。最近、母親の食欲がないので心配だったが、先日の胃カメラ検査の結果は良好だったのでひと安心である。胃がん摘出から3年目になる。そんな母親は、「岩手での展覧会がなくなったんやったら、夏休みしたらええがな。それにしてもぎょうさん無駄遣いしたなあ」と言う。神経の細い人なので、今回のトラブルがストレスになることが心配である。もう夢で叫んだりはしないでおこう。
ともかく、今年前半を賭して用意してきた岩手での展覧会はなくなった。
一旦すべてを忘れるために、ささやかな夏休みをとろう。
悲しい夏休みだが、2011年という特別な年の想い出としては、それもいい過ごし方かもしれない。