11月29日

昨日の撮影の続きを私の仕事場で行う。もう群衆シーンは終わっているので、少人数での撮影である。

夜、夢を見る。
私は不正乗車のためにいろいろと事情聴取を受けることになるのだが、私自身は、「不正」であることの理由がよくわからず、まったく罪の意識が感じられない。聴取する者といろいろやり取り(=会話)をしている内に、「罪と罰」についての討論となる。
罪と罰の関係はいろいろである。罪を犯した人間がその罪深さを感じているなら罰は意味がある。しかし、例えばある三叉路にさしかかり、右に行くのも左に行くのもたいして変わらないのに、なぜかたまたま、右に行くのが正しく、左に行くのは批難されるというケースもあるだろう。そんな時、右に行くといいが、左に行くほうを選んでしまうと、それは罪となり罰が与えられる。こういうケースを考慮に入れるならドストエフスキーの「罪と罰」も、現代的な改変が求められるのではないか‥‥などと私は得々として語る、そんな夢だった。