11月4日
詩人の佐々木幹郎さんと対談する。
幹郎さんの父君であり、私の美術の恩師でもある佐々木節雄先生の遺作展会場にて。幹郎さんという
「詩人=言葉の達人」がお相手だったせいか、話をしながら「言葉ってなんだろう」とずっと考えていた。
なにごとかをうまく言葉で言い表せないと、世界の輪郭線があいまいなままで、とても気分が重くなる。
ところが、なにかの拍子で、いい言い回しを発見すると、「世界に対する解答」を得た気分になり、とても
気が晴れる。それは数学の問題が解けた時のような爽快感である。そしてこの発見した「解答」を得意げに
何度も各所で話をしたり書いたりしているうちに、次第にこの「解答」がますます堅牢になり、絶対に正しいと
いう確信にいたり、そこに喜怒哀楽さえも加わって、私は感動とともにこの「解答」を人々に話すことになる。
すると信じる言葉の強度はたいしたもので、信ずる心は他者にも伝わり、それなりの感動さえ呼び起こすことも
可能になってくる。
私は、それら言葉を巡る一部始終が「ウソっぽいな」と、いつも言葉不信に陥る。言葉は「世界の解答」なんか
ではないからである。言葉とは「ウソ」である。その「ウソ」を「ホント」と思い込む事により、人は言葉を
言葉足り得るものに偽装する。
私は、いろいろなインタビューに応じて気の効いた答えを話はするが、いつも最後に、「ええっと、今言った
こと全部口からでまかせですから、信じないように」と、口に出しはしないが、そう感じている。